2011年10月24日月曜日

【雑感】謙虚とはなんだったか【フットボールが好きですし】



 フットボールをしていて、コーチなどが頻繁に、

「もっと良いブロックしろ」「もっと良いタックルしろ」と言う。

もっと細かい範囲では、WRが「RACが遅い」と言われ、DBが「バックペダルが悪い」と言われ、

パンターは「蹴るのが遅い」と言われ、ロングスナッパーは「スナップが悪い」と言われ、

ということはよくある。

「○○を必ずしろ」や「○○は絶対にするな」という言葉のこともある。


挙句の果てに全員が「取り組みが甘い」とか言われ・・・・・。




 勘違いしてはいけないのは、これらは『命令』ではない、ということだ。

命令、号令、指示などといった、『成果や完成度を要求する』類の発言ではない。

 そうではなくて、これらの発言は『勧告』に近い。

勧告、警告、注意などなどといった、『ただ危険性を提示する』類の発言なのだ。


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 ここから数行は、『成果や完成度を要求する』ことと『ただ危険性を提示する』ことの違いを述べる。

『成果や完成度を要求する』とは、発言者が良いと思うある一定の具体的な成果や方法論を想像しつつ、そのような行動や結果を実際にすることを期待または強制することである。一方『ただ危険性を提示する』とは、発言者が良いと思うある一定の具体的な成果や方法論を想像しつつ、しかし、そのような行動や結果を実際するか否かは受け取り手本人に任せるということである。

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もしかすると、その勧告が耳障りであったり、理不尽に聞こえたり、腹立たしかったり、見当違いに思えたりすることがあるかもしれない。



というより、僕はそういうときのほうが多かった。



そのような時に、その勧告を無視したり、表面上は聞いておくけれど重く受け止めなかったりすることは頻繁に起こっているのではないだろうか。



何を隠そう、僕がそうだった。



この『勧告を無視する』という行為を考えてみる。

この行為は果たして「謙虚」だろうか、ということを考えてみる。


ずばり結論から言うと、誰もが「謙虚ではない」と言うだろう。僕もそう思う。




それでは、何を以ってこれを「謙虚ではない」と断ずることができるのだろうか?

今回の主題はこれです。

何を以ってこれを「謙虚でない」と断ずることができるのだろうか・・・?







「謙虚でない」と断ずるにあたって、「謙虚」の反義語をググってみた。

謙虚 ⇔ 高慢自分の才能・容貌などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。

     傲慢おごりたかぶって人を見くだすこと。

     尊大いばって、他人を見下げるような態度をとること。

     横柄無礼、無遠慮なこと。


ググって出たのはこれだけだが、ここに、恣意的にもうひとつ加えたいと思う。そう、僕の先生がよく使うあの単語だ。



謙虚 ⇔ 横着 すべきことを故意に怠けること。できるだけ楽をしてすまそうとすること。



このようにして並べたとき、やはり【高慢・傲慢・尊大】と【横柄・横着】というグルーピングが見えてくる。特に「横着」はひときわ異彩を放っている。(他所から持ってきたものなので、当たり前か)



【高慢・傲慢・尊大】

 これらの言葉は、やはり相手に対する態度なのだと思うのですが、違いますか。このグループの言葉の説明は、全て対象が「人」「相手」「他人」なのです。


【横柄・横着】

 横柄には、人を対象にして「無視すること」という意味もあるけれど、あえて前グループに無い意味で「横柄」にはある意味をピックアップしました。そうしたら、【横柄・横着】は対象が「人」ではないということに気付きませんか?





「お前は謙虚ではない」と言われたり、

「あいつは謙虚ではない」と自分で言ったり、聞いたりするとき、

いつも何か違和感を感じていた。

「何?謙虚ってのは、ヘリクダレ!という意味なのか?」という感覚に近い。

兎に角、何か違和感を感じていた。



 しかし、どこかで僕の口を突いてでた「フットボールラヴァー(football lover)」という単語が、この違和感を解決してくれた。




『勧告を無視する』という行為は、謙虚ではないと思う。

しかしこれは何も、発言者を無視したから「こいつは謙虚ではない」のではない。

彼が発言者にどういう態度を取ったかは、彼が謙虚か否かを揺るがす問題ではない。

『勧告を無視する』という行為をしたからといって、それは『勧告』であるがゆえ、発言者は悲しくなりこそすれ、怒らないし憤らないし、失礼被ったとも思わない。

無視した当人が死ぬ(スポーツで言えば負ける)だけなのだから。





 改めて、僕は以下のように思う。




『勧告を無視する』ことによって、彼はFootballを冒涜したのだ。

『勧告を無視する』ことによって、彼はFootballの深遠さを諦めたのだ。

『勧告を無視する』ことによって、彼はFootball Loverであることを辞めたのだ。



 それは、人に対して高慢だろうが傲慢だろうが尊大だろうがそんなことはどうでもよくて。

 Footballという競技の深遠さに対して謙虚でない。

 発言者のことなどどうでもいい。




 Football Loverとして当然の努力を、(まぁいいけどさ、)彼は諦めたのだ。Football Loverとして、自分の把握できなかった、これからも一人では把握するのが難しいであろう、課題を提示されそれをひとつ改善し、より良いFootballerになるチャンスを、彼はつまらない多少の腹立たしさなんぞでみすみす逃がしたのだ。


これは感情に流されてFootball Loverであることを自ら放棄したといっていい。



なるほど、と思った。



どおりで、凄いひとは謙虚なのだ。



彼は「競技の深遠さ」を知っているがために、謙虚にならざるを得ない。○○Loverであるがために、その勧告を無視することができない呪縛にかかっているのだ。



だから、態度が高慢だろうと傲慢だろうと尊大だろうと、したたかにその勧告を聞いているものだ。そして、横着ならぬ量の練習を重ね、(表向き涼しい顔で)したたかにそれを改善してくる。



これこそが、僕の探していた「謙虚」という言葉なのだなぁ、と思ったわけ。



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余談だが、このような「謙虚」な人間が集まってこそ初めて、コーチは「要求」ではなく「勧告」に徹することができ、より良い選手-コーチ間のコミュニケーションが実現するのだから、卵が先かニワトリが先かという問題(選手が「謙虚」たるのが先か、コーチが「勧告」に徹するか)でもあり、まあその辺はごにょごにょ・・・

*/



 当然のことなのだが、これは何もフットボールに限ったことではないと気付く。サッカー、野球はもちろん、囲碁、将棋、ブラスバンド、オーケストラ、あらゆる競技。


 そしてこれは個人的な感想なのだが、僕にとっては仕事(今は塾の先生)においても、友人や恋人との人間関係においても同じことが言えるのではないかと。


 グッドプレイヤーになるためのチャンスを多少の腹立たしさで放棄したりしない、その態度が、謙虚というわけだ。



最後に、僕の先生の、僕の一番好きな言葉を添えたい。




「進歩成長とは変化することである。
 変化とは深さを知ること。
 深さを知るとは謙虚になること。」

2011年10月16日日曜日

自戒 / 備忘録





// ツイッターで呟いたことを、備忘録として。



特別なことをしたからとか、試合中のオペレーションの失敗だとか、

「ミス」とか「ヒューマンエラー」とか、

そいういう理由で負けたと思ってないか?

全く違う。

彼らは日頃から、彼ら自身に顕在ないし潜在する問題に対して量・質ともに、
我々が我々にするよりも遥かに、
真摯に真剣に取組んでいただけだ。


「あれさえ無ければ・・・」なんて有り得ない。
その兆候は現れてなかったのか?
その可能性はゼロだったのか?
そういうシビアな一日一日を積み重ねていないということのみが、
勝敗を分かつのではないだろうか。

そして忘れがちだが、 

彼 ら は そ れ を や っ て い た の だ 。



それに加え、

負けた自分達の日常を悔いるのは大いにすればよい。

しかし、
もう少し、勝った彼らの日常に敬意を表してはどうか。
それをしないから、我々は不遜なチームのままなの。